第104回 『ふっと死ぬ前に…』6

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グランマのひとりごと

~グランマのひとりごと~

空腹の後のおいしさ、
寒い冬の後の春、
暑い夏の後の秋
辛さの奥にある喜び 泥水を栄誉として咲く蓮の花 正観

 義弟夫婦が引っ越し、たまらなく淋しくなった。ある朝早~く、誰かがドアを叩く。開けると隣家のMrs.アルバートだった。

 ポット1杯のお湯を持って『澄子、今朝この辺一帯停電なの、ストーブが使えないから、キャンピングカーでお湯沸かしたから使ってね』と。外は雪だ。皆、優しい。

 3月末、日本の親友が娘の小学校卒業連絡と同時に、その娘チロちゃんがカナダ留学希望だから預かってくれと言ってきた。

 そして、チロちゃんは日本から一人でやって来た。受け入れ校は我が家からバスに乗り、地下鉄に乗り、又バスに乗って行く遠―い所だった。

 しかし、彼女は頑張った。毎日一生懸命通学し、2人の娘達とは徹底して日本語で話し、3人は日本語が日常会話となった。 

 ある日、警察から電話があった。「ええっ、万引き!」チロちゃんの身柄を引き取りに来いと言うのだ。慌てて、バスに乗り、地下鉄に乗って言われた地下鉄駅内の大きな「薬局&雑貨屋」へ行った。そこで、チロちゃんが丸く細長い包装紙を脇下に抱えたままレジを通り過ぎつかまったと説明をされた。

 モントリオロールの冬は誰もが厚着だ、オーバーの袖下に何か挟んでも感覚はない。多分、買うつもりでわきに抱えたが、店内を歩いているうちに、それを忘れ、ボーっとレジを素通りし捕まった。不運な事に彼女はお金を持っていなかった。

 そこで店員がポリスを呼んだ。しかし、チロちゃんは泣かなかった。弁解もしない、そして、その後もしっかりと学校で勉強を続けていった。東京から一人12歳の少女が地球の反対側へ来て長期留学。勇気もあるし、色々な意味で聡明な子だった。

 カナダで中学高校卒業、帰国後、直ぐに東京外語大学へ入学していた。

 グランマは仏語学校で数ケ月勉強したが、それで仕事が出来る様にはならず、就職難を理由にマギール大学の英語科の試験を受け英語の勉強を始めた。

 開講第1日目、教室の中央通路の脇席に座った。見ると周りは皆白人、数人は牧師の制服を着ている。ヨーロッパからの移民が多いようだ。教室出入口は後方だ。そろそろ講師が来る頃、日本語なまりの英語でクラス確認をしている女性がいた。

 「あっ、日本人!」。通路を歩いて来た彼女がすぐ脇に来た。彼女の上着の裾を引っ張り、隣席に座らせた。

 これが美人シャキシャキ大阪は船場の娘、真理子さんとの出会いだった。モントリオールでの3年間に出会った日本人と言えば、この真理子さんと有名商社に勤めるその夫だけだ。3年間しっかり良い友達でいてくれた。

 そして、政情は子ども達を英語の公立学校入学させることさえ新しい規則が出来、難しくなってきた。

 チロちゃんは他の知人を頼ってバンクーバーの学校へ転校して行った。

 私達は家を売却しアパートへ移り、何時でもバンクーバーへ越せる用意をし、夫は仕事を続けていた。

 結局、私はこの3年間就職はせず、移民前に考えていた仏語と英語の勉強をし、3人目の子供の出産。長女と12年間の年齢差がある男の子が生まれた。

 9月の新学期に間に合うように、夫を後に、私は一足先に3人の子供とバンクーバーへ向かった。義弟夫婦と再会を喜び、その数日後、どうしても母に会いたいと3年ぶりの東京へ行った。

 「どこへ住んでも、色々問題はある。」そして、香港も、モントリロールも良い、東京も大好きだ。何がこの先、バンクーバーで私達を待って居るのだろう。

 

グランマ澄子

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 好評の連載コラム『老婆のひとりごと』。コラム内容と「老婆」という言葉のイメージが違いすぎる、という声をいただいています。オンライン版バンクーバー新報で連載再開にあたり、「老婆」から「グランマのひとりごと」にタイトルを変更しました。これまでどおり、好奇心いっぱいの許澄子さんが日々の暮らしや不思議な体験を綴ります。

 今後ともコラム「グランマのひとりごと」をよろしくお願いします。