運のいい奴 2 ~投稿千景~

1906

エドサトウ

 農業研修所に在学していた18歳の夏に小遣いを稼ぐ目的でビルの清掃作業のアルバイトを新聞で見つけて働きはじめた。場所は名古屋市の中心にある有名なデパートの高層ビルデングであった。

 夕方にデパートが閉店となると、僕達清掃者がそれぞれの階に配属されて清掃にかかる。慣れない小生に、いきなり女性トイレの掃除を言いつけられたりすると、女性店員がまだトイレで帰りしたくの化粧などをしていて、その中を男の僕が入ってゆくのも、どうも気おくれがして入りづらかったが、仕事だから仕方がない。言われたとうりにやらねばならず困惑したのを覚えている。

 ある時は展望台付近にあるファミリーレストランの外の窓ふきを言われ、窓の外にある狭いコンクリートの出っ張りの足場みたいな処に立ち窓を拭いたが、下を見れば、ゾゾとするような高さで随分怖かった。

 深夜、125ccエンジンのモーターバイクに乗り、車の少ない深夜の街を気持ちよく走らせて、一時間弱で帰宅するのであるが、その日は、僕の前を東名高速道路に行く大型トレイラーがノロノとした感じで走っていた。軽いモーターバイクはスピードが出る。僕はアクセルを上げてその大型トレイラーを追い抜こうとした。すと大型トレイラーは追い越し車線にトラックを寄せてきた。僕は取りあえず対向車線に出て追い抜こうとしたとたん、今まで中央になかった中央分離帯のコンクリートが15㎝ぐらいの高さで作られてあり、僕のバイクは分離帯のコンクリートに激突。僕はオートバイと一緒に対向車線に投げ出されたのである。

 オートバイのハンドルと前のタイヤはくの字にクシャっと曲がり動きそうにもない。僕自身は尻と腰を打ったがひどい打撲でもなかった。トラックの運転手がバックミラーで事故を見たのか車を止めて降りてきて、深夜にバスもなく途方に暮れている小生に「大丈夫か?」と声を掛けてくれた。

 オートバイは取りあえず歩道に置いて、東名高速道路の入り口まで、そのトラックに乗せてもらった。そこから実家まで6㎞でも、歩くのはしんどいので、たぶんタクシーをひろって帰ったと思うがハッキリとした記憶はない。

 翌日、母に訳を言って、一緒に現場に行き、オートバイを近くのオートバイ屋さんに持って行ったら、そこの主人が「対向車線こりゃあ、ひどい。これは大けがをしたでしょ?」と母に言っていたが、その横にいる僕が運転していたとは気が付かなかったようであった。

 大きな事故であったがたいした怪我も無かったのは運が良かった。最近、マウンテンバイクに週末に乗っている友が丸太の橋を渡る時にこけて、骨折ではないけれども打撲が痛いと言っていた。

 僕の場合は、に車が走っていれば命は無かったかもしれないが、深夜で対向車線に車が無かったのは運が良かったのかもしれない。

 1970年春に農業研修所を終了する前に、農業青年派米研修制度に応募をして、どでかいアメリカの農業を是非見てみたいと思うようになり、この制度に在学中に応募を試みた。すると、同じ寮にいた友が、「佐藤がやるなら俺もやってみる」と言って、二人は『派米研修制度』に応募をしたのである。

 一次、二次試験は問題なく進んでゆく、最後の試験は三重県で東海三県合同の体力テスト、筆記試験があったが、僕はここで落選となる。学友と同郷で現在造園業を手広く経営している幼なじみのS君が合格となり、少々がっかりしていると、しばらくして県の担当者の方から連絡があり、「ブラジルとカナダに行く同じ様な制度があるから、やってみないか?」と言う。父と相談をして、再度カナダ行きを応募したのである。

 派米研修制度の場合、説明書をよく読めば、すでに海外渡航の経験のあるものは除くとあるから、僕の場合は、すでに親善交流団として東南アジアに行っていたので、派米の制度には参加できなかったが、カナダの方はそいう制限は無かった。むしろ移民を奨励いるというふうであったから、農業訓練生ではあったが移民のビザがついていたので、偶然ではあるが、その後、小生がカナダに永住するきっかけになったのは運命の不思議である。

 2年間でアルバータ州の農業訓練が終了して、派米でアメリカに来ている学友と会うためにシアトルに行き、その後バンクーバーに至る。

 当時、太平洋戦争で敵国人であり英語わからない日本人にできる仕事は、ほとんどなかったけれども、バンクーバーで親しくなったN君が日系人のマツモト造船所の仕事を見つけてくれてさいさきのよいカナダの人生が始まったのである。

 「人生は川の流れに流れてゆくようなもの、運に適応したものが生き残れる」という意味のことを出口治明(立命館アジア太平洋大学学長)が言っておられるのはうなずける。