第101回 『ふっと死ぬ前に…』3

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~グランマのひとりごと~ 

 グランマの小学校入学は1946年4月です。その頃、東京の町はぜーんぶ焼け、池袋駅周辺に家はなし。今の西武百貨店とパルコの間の位置に立つと遠く「護国寺」の緑色の銅製屋根が見えました。

 焼け跡で遊んでいると当時「パンパン」と呼ばれた売春婦が死んで転がっているのを何回も見ました。銀行とかお風呂屋の広い焼け跡をさがして遊び、また護国寺(真言宗豊山派 大本山 護国寺 天和元年(1681)五代将軍徳川綱吉が、生母桂昌院の願いにより創建した祈願寺である)や、雑司ヶ谷墓地等が遊び場でした。

 小学校は焼けてなし。川越通り池袋寄りに1軒焼け残った小さな古寺があり、そこが最初の小学校。手製の長いテーブルが置かれ、その両側に生徒は顔と、顔と見合わせながらのぎゅうぎゅう詰めで正座、教科書もありません。ガリ版刷りの白い紙が配られ、それが、教材でした。給食もない。池袋駅西口からかなり歩くと千川に出ます。千川には焼け残った学校があり、そこへやがて通うようになり、給食も始まりました。

 でも、まずかったなぁ、あの給食。鮭の皮の入ったスープが何だか蛇の皮に見えて、2階の窓から外へそっと捨てたのを覚えている。

 B29が来ればサイレンが鳴り響き、電気を消して防空頭巾を被り、水筒を持ち防空壕に避難した。第2次世界大戦を経験し、香港哲徳空港での仕事ではベトナム戦争の諸事を見聞し、ある時はパリからの帰路、突然飛行機がサイゴンに緊急着陸し戦時中のベトナムの首都に滞在となったことも経験した。

 そして、今度は香港で文化大革命。私の身辺での政情はどんどん厳しくなり、とうとう中国から送らてくる飲み水が週1回、3時間の給水となった。空港やあちこちに爆弾が伏せられ危険状態で、乗客誘導にも随分注意が必要となった。

 そしてとうとうカナダ在住の義弟の勧めで、我々もカナダへ移民申請書を提出した。義弟がマギール大学に働く化学研究員で保証人となってくれた。それで、上手くいくと確信していたのだが、1年過ぎ、2年経ってもカナダ総領事館からは連絡がない。そして、もう私は移民を諦めていた。 

 そんな或る夜、空港で仕事中電話が鳴った。受話器を取ると、相手は何とLufthansa香港の大ボスだった。

 彼が突然「スミコ、あなたはカナダへ移民申請しているのですね?」と聞くではないか。一瞬、ドキドキ。どうしようかと迷ったが「ハイ、2年ほど前に申請しましたが、返信が全くありません」と言った。すると彼が「スミコ、事情は分かるが申請して2年、今も本当に行きたいのか?」と聞く。私は「ハイ、行ければ行きたいです」と答える。すると彼は「それなら、直ぐ行けるよ」と。

 「実は自分の妻は香港のカナダ総領事の秘書を長年やっている。彼女が総領事の末処理書類中からスミコの申請書を見つけた」と言う。申請書にスミコの現職がルフトハンザと書いてあったので、別にされていたそうだ。それを彼女が見つけて、「スミコにどうしたいか確認しなさい」と言われ今電話したと言うのだった。

 私は「行きたい」とはっきり言った。すると彼は「すぐにビザは下りるから飛行機の予約をしておきなさい」と助言した。

 それは11月中旬の事だった。ビザは間もなく下り、12月中旬には会社が有給休暇をくれ、出発日を繰り上げ、クリスマスと正月を日本の家族と過ごし、1月に厳寒のモントリオールに着いた。ただ、そこで待っていたのは「静かな革命」 Quiet Revolution(1960年代にカナダ、ケベック州で行われた、政治、経済、教育等に関する一連の改革のこと)だった。

 Lufthansaは家族全員の飛行機代は休暇中の旅行として10%支払いで発券してくれた。12月に入って私は香港でしか買えない中国家具を幾つも買った。LHスタッフには「無料輸送R2カーゴー」という、職員一人が5KGまで世界中どこでもルフトの飛行機が飛んでいるところに無料で物を送れる特典がある。

 香港のスタッフは皆が5KGずつ出しあって、私の家具をモントリオールへ全部送ってくれた。そして、東京のスタッフも日本の本を買い集め、これまたR2カーゴー無料輸送の特典を使い送ってくれた。ありがたかった。なんて優しいのだろう。皆とお別れ会の時はやはり涙が止まらなかった。

 香港出発の日、私達家族4人、東京行きLufthansa便搭乗列に並んでいると空港所長、ボスのストリッカーさんがやってきた。彼が笑顔で私の夫を捕まえ、数歩離れたところで話し始めていた。2人は楽しそうに笑っている。わざわざ見送りに来てくれたのだ。

 とても去りがたい香港哲徳空港だったが、運命の時が来た。家族4人飛行機に乗って荷物の整理を始めた。すると夫があれやこれや助言する。そして、落ち着くと彼が言った。「ストリッカーさんがさっき僕に話したのはね、スミさんは今、あんなに沢山荷物持っているけれど、モントリオールに着く頃には、皆無くなっているから注意してあげなさいって言ったのだよ」

 私のボスは、私が忘れん坊な事もよく知っていた。それでも、スミさん、スミさんと言って可愛がってくれました。彼はその後、成田空港開港時、最初のLufthansaの空港所長になった。日本が大好きなドイツ人でした。

 ずっと通ってきた81年、長い道。振り返ると、知らず、知らずに一所懸命「念」を入れて生きていたのだろうかねぇ。それは長ーい道、感謝と学びのでこぼこ道、でもね、時々休める温かーい道だった。

グランマ澄子

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 好評の連載コラム『老婆のひとりごと』。コラム内容と「老婆」という言葉のイメージが違いすぎる、という声をいただいています。オンライン版バンクーバー新報で連載再開にあたり、「老婆」から「グランマのひとりごと」にタイトルを変更しました。これまでどおり、好奇心いっぱいの許澄子さんが日々の暮らしや不思議な体験を綴ります。

 今後ともコラム「グランマのひとりごと」をよろしくお願いします。